東日本大震災で命を落とされた方のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。また被害を受けた方に心からお見舞い申し上げます。
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その震災の後、私は全然ネット上で何かものを書く気になれませんでした。色々な情報には目を通していたと思いますが、言葉は全然出てきませんでした。何を書いても虚ろに響くばかり…言葉の無力さを改めて感じました。私に出来ることといったらストップした仕事を慌ただしくこなすこと、微々たるものですが募金したり電気を消したりすること、不要なものの買い占めをしないこと、ぐらいでした。
東京は余震と放射能の不安に覆われた人々、「心から何かを楽しんでいいのか?」と他人の顔色を伺う人々で埋め尽くされています。幾ら鈍感な私でもそれぐらいはわかります。滅多に乗らないタクシーにずいぶん並んでから乗り込むと、他のドライバーや道行く人たちはそんな人ばかりだから。恐ろしいな、と思いました。実に簡単に人間て同じ方向を向いてしまうものなんだ…。物資の買い占めに走るのも全然不思議ではありませんでした。こんなところにヒトラーとか麻原みたいな人が現れたら簡単に吸い寄せられてしまうのかもしれません。
その日…私はお客さんの対応をしていました。そこに最初は小さな揺れが…そして間髪を容れずいまだかつて経験したことの無い大きな揺れが襲ってきました(私の職場は深度6弱ぐらいあったそうです)。そして停電になりました。ゆったりした横揺れであったため、遠くできっと大きな地震があったのだろう、ととっさに思いました。私はさっと中腰になりましたが、あまりの揺れの大きさに固まってしまい、ガラス窓の側から離れることさえ思いつきませんでした。上司の声で我に帰り、お客さんと共に目の前の広場に出ました。近所のスーパーもファストフード店も美容室も停電しており、沢山の従業員とお客さんが出てきていました。その間も絶えず余震が続いていました。余震がだいぶ収まって職場に戻ると、非常用のライトも消え(今がその非常時なんじゃないのか、と思いました)水道も止まりメールも電話も出来ない状況でした。夜だったら大混乱だったはずです。駅前に蝋燭を買いにいくついでに公衆電話から家族の安否を確認し、その日は蝋燭の明かりで過ごしました(よく考えてみれば火は結構危険でしたね。反省します)。
次第に各メディアを通し被害の甚大さがわかってきました。その数日間思っていたのは、悲しくなるほど私たちの生活はかりそめのものでしか無いんだ、ということでした…。私たちが泣いたり笑ったり感動したりしている(ように見える)「この世界」は映画のセットのようなハリボテでしかなく、地球がちょっと身震いすれば我々が何千年と積み立ててきたものはあっけなく消え失せて、皮膜一枚下にある原始の暗闇に再び取って代わられる…。そんなことは自明なのに、改めて見せつけられると叫び出したいぐらいの恐怖と無力感がありました…。だからこそ毎日の生活は愛おしく大切なものなんだ、と今はわかりますが。
東北には一度、千葉には何回か行ったことがあります。震災後私が最初に思い出した「東北」は、霧に包まれた仙台の街のイメージでした。私が仙台の街を歩いているときも松島に行ったときも、絶えず霧がかかっていました。それが仙台の街の特性なのか、それとも単にたまたまだったのかわかりませんが、霧のかかった幻のような仙台の街の思い出が、震災後どうしても頭から離れません。
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