え〜っとプロフィールの画像がブライアン・ウィルソン翁(もう「おじさん」というより「おじいさん」ですよねえ…)になってますけど、この前たまたまCD棚を眺めていたら目に入ったのでビーチ・ボーイズの「フレンズ」を聴いてみたんです。いやーもうめちゃくちゃ懐かしかったですね。最後に聴いたの高校二年生ぐらいだと思いますからね。思わず遠い目になっちゃったんですが…。「フレンズ」は私が当時愛聴していたアルバムの一枚でした。
そういえば同じ頃にスティービー・ワンダーの「キー・オブ・ライフ」っていう大作アルバム(確かLPでは三枚組)も愛聴しておりまして、当時クラスメイトだった主宰君(←最近よく登場しますね)に貸した覚えがあるんですが…まあ彼は忘れてそうですけどね。「なんかさー、この『サマーソフト』って曲の歌い出しって『寒そう〜♪』って聴こえるよね」とか言ってゲラゲラ笑ってたのをふと思い出しました。しかしこう考えてみるとあんまり今とやってることも言ってることも変わんないですねw 情けなくなってきます。
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さて、「フレンズ」の内容についてなんですが…あんまり突っこんで書くとある意味「ビートルマニアより扱いづらい」というw ビーチ・ボーイズ・マニアに袋叩きにあいそうなので口を慎みたいと思いますが、でも確かにこれは地味ながら素晴らしい完成度があります。チルアウト系というか…「サーフズ・アップ」と並び、ビーチ・ボーイズが最も内省的な方向に振り切れたアルバムかも知れません("Transcendental Meditation"なんて曲もある)。夏に聴くビーチ・ボーイズじゃないですね。インストの「ダイアモンド・ヘッド」なんてヨガかなんかやりながら聴いてみるとハマりそうです。
これを聴きながら考えていたことなんですが…実はビーチ・ボーイズがほんとに光り輝いていたのは60年代中盤の、非常に限られた時間だけだったのではないかってことです。60年代中盤のビーチ・ボーイズが出した幾つかのシングルの持つ、もうほとんど天使のような美しさ、モーツァルト的美しさっていうのは時代と結びつくことによってしか達成され得なかったのではないか?と。イギリスからぞろぞろやってくるビート・バンドやら本国のモータウンの攻勢にあい、たった一人必死で「シェア」を守ろうとブライアン・ウィルソンはもがいていたわけだけど、そうした外圧のなかで神様の思し召しのような具合にあのような楽曲がぽろっともたらされたのではないか?ああいった奇跡のような楽曲を耳にするときどうしてもそのように思えてならないのです。「人智を超えた何か」というのでしょうか…。
それ以降も「フレンズ」とか「サンフラワー」みたいにいいアルバムはあるんだけど、それははっきり言って「時代から見捨てられて、それでもいい曲を作ろうとするロックバンド」の美しさ、儚さなんですよね。やっぱりそういうものがどこまでも舞い上がっていく天国的な美しさを有するのは難しいし、期待してはいけないと思うわけです。これはロックバンドの宿命なんでしょうか?
あー、確かに、青いMDだったよね。
「寒そう〜♪」か、あーあったあった(笑)
いつまでも少年の心を持っているということで、一つ。
投稿情報: 主宰 | 2007/01/08 02:02