昨日は何人かの世間的に有名な人が亡くなった一日でありました。あるものはその死を惜しまれ、あるものはその死さえも憎まれていたように思えました。昨日一日だけでどれだけ「死者を鞭打ちたくはないが…」で始まる、死者を鞭打ちたくてしょうがないという悪意のほとばしる文章を見たことか?そういった文章をみるとちょっとした困惑が私を襲います。どちらかというと「死で全てを償うことが出来るわけではない」という考えのほうが硬直化した、想像力のない考えではないだろうか?だいいち「死で全てを償うことが出来るわけではない」と考えている人が「死」そのものを体験してきたわけではないんだから(臨死体験でもしてれば話は別ですが)、純粋な修辞法としての説得力、効力にも欠けていて、あまり頭に残らない。また死ほど圧倒的、切断的であり、同時に我々にとって未知の事象は存在しないし、その一線はとんでもない深さのクレバスであるはずなのだ。私たちはそういった死に対する畏怖を絶えず持ち続けることにより、今この瞬間目の前にいる人に対し優しくなれたりするのではないでしょうか?だからこそ、生前にどれほど酷いことをしてきた人であれ、その一線を踏み越えてしまった人に悪意をもった言葉をかけることはどうしても私には出来ません。死者の良かった面だけをみよう、ということではなく、死んでしまった人に対して言いたいことの全てを飲みこむことにより、私たちはより強く、かつ優しくなれるのではないか、ということです。そしてもし私たちが死者からなんらかの不利益を被られていたとして、私たちが彼らに対して出来る唯一の報復は、私たちがより強く、より優しくなることなのかもしれない、と私は考えています。
R.I.P.
[追記] 無論疑惑の追及は徹底的になされるべきだとは思いますが、それとこれとは話が別だし、別のこととして処理なされなかったとしたら、それは正当な追及を果たせるシステムを持てないこと事態に問題があるのではないでしょうか。だいたい死者をどれほど糾弾してみたところで、とてつもなく非生産的だし空しいと思うんですが…。
でもねぇ、自ら命を絶ってしまうというのは・・・いかがなものか、と。
投稿情報: 主宰 | 2007/05/29 22:17
死んだら元も子もない...絶対的な自由とか色々いうけどね。
投稿情報: わら | 2007/05/29 23:01
>>主宰
死が逃避の究極的な形である、ということは否定はしません。おそらくそうなんでしょう。それをふまえてもなお、私は死者を鞭打てないのです。これは生理的なものなのかも知れません。どうしてもニンニクが食べられない人がいるのと同じようなものです。上記の文章を書いたときに私が考えていたのはそういったことで、「みんな、死んだ奴を悪く言うな!」ということじゃなく、「私にはどうしても出来ないよ」ということです。
また「お前は当事者ではないから感情的にならずにいられるんだろう」と言われてしまうかも知れないですが、それはそうかもしれません。こればっかりは、なってみなければわからないです。それでも、私は常に「感情的になってしまったらこちらの負けである」という原理で動いているし、今までもそのように生きてきた気がします。
>>わら
死んだら終わりですよね。私は今世界中に「死ぬな!」と言いたいです。
投稿情報: yoji | 2007/05/30 00:09
哲学者ですな。
そう、死んだら負けです。
投稿情報: 主宰 | 2007/05/31 00:54