Corneliusこと小山田圭吾の新作"Sensuous"聴きました。聴きながら気づいたんだけど、彼の音楽を聴いたのは実に実に久しぶりでした。ひょっとしたら前作(って5年前ですか…)が発売されたときに聴いて以来初めて彼の音楽聴いたかもしれません。たま〜にフリッパーズ・ギターは聴くことあったんですが…。
私としてはもっと現代音楽方向に振り切れたようなのを予想してたんですが、そんなこともありませんでした。私にとってこれはほとんど「ポップ・ミュージック」として響いてきました。シングルカットされたやつなんて、もうド・ポップです。
「最新の超合金のおもちゃを組み立ててるときの無邪気さ・そしてそれをぶっ壊したくなる衝動」という幼児性(考えてみるとブライアン・ウィルソンにせよウォルト・ディズニーにせよ、その幼児性に力点が置かれてた)を、彼の音楽は一貫して表現してきたような気がするんですが(そのような点から彼の音楽を捉えてみると実に一貫したキャリアであったと思います)、彼の「超カッコいいもの」(例えば「ドラムン・ベース」みたいな)に対する興味は次第に薄れてきているのではないかと思います。今までの「超カッコいいもの」に近づけるための手段を、現在は表現のための一つ一つの方法としてアーカイブ化し、いつでも取り出すことが出来るようになったのではないでしょうか。そして今作では相当に抽象度の高い世界を現出させることに成功しているのは確かです。思わず何度もリピートしてしまいます。
私にとって黒人がやってるジャズの幾つかは、もうほとんど理解の埒外にあると感じる気がするときがあります。理解の埒外っていう言い方は適切ではないですね…より正確に表現してみると「この音楽を生み出す人の地盤となった環境・風土を、私は一生実感として捉えることなく死んでいくのだろう」という言い方が近いでしょうか。しかし、そういったものを抱えた音楽は私をいまだに興奮させます。「それじゃあアフリカとかブラジルの、より耳に馴染みの無い音楽を聴けばよっぽど興奮出来るのではないか?」という80年代的な考え方は私には今のところありません。モダンジャズのセッションという、相当に西洋音楽的な制約を受けた中で、優れたジャズメンがあれほど誰にも「媚びない」超然とした演奏を展開しているにも関わらず、なぜそれが私を引き付けたり、また驚くほどの親しみやすさを有していたりするのか?ということが「理解出来ない」のです。「親しみやすい」ことと「媚びる」ことは同義ではないと私は思うのです。
そこでこの"Sensuous"なんですが…小山田氏のやってる音楽は、どれほどヴォコーダーをかけたり、生音をサンプリングしてProToolsで編集したり切り刻んだりしようと(このアルバムを作るには言うまでもなく気の遠くなるような作業があったでしょう…頭が下がります)、そしてどれほど無邪気に「音と戯れている」ように見えていようと、すごく「わかって」しまうのです…何様のつもりだと怒られるかもしれませんが、別に「私だけがわかっている」とかそういう話では全然なくて、これは彼の音楽を聴いてきた人、いやひょっとしたら彼の音楽に興味を持って聴いてみた人のおそらくほとんどの人が「わかる」音楽だと思います。安全な着地点を探っているような音楽である、またかなり酷い言い方ですが、先ほどの例を挙げれば「媚び」ている音楽に近いといってもいいのかもしれません…。一貫して彼の音楽はそうであったし、これから先もきっとそうあり続けるのだろう、とこのアルバムを聴いて私は確信することになりました。そのことについて私はどうとも思ってはおりませんが。
そんなことよりも私が気になったのはシングル"Music"の中の一節"We need music"です。今まで彼がこんなにも直接的なメッセージを発したことがあったでしょうか!あの小山田氏にすら「音楽が必要だ」と言わせるようになった2006年という時代にどう向き合っていけばいいのか?我々が考えなくてはならないのはむしろそちらのほうではないでしょうか?
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