Rashaan Roland Kirk / I Say a Little Player(YouTube)
私たちの誰もが「赦す」ことを「許され」ているわけではない。誰かを何かを「赦す」という行為も、もがき苦しみながら勝ち取った一つの固有の権利であると私は思う。漆黒のジャズの持つエナジーを、ゴスペルの要素も散りばめながら、全体的に前のめり気味(8ビートだと顕著である)の疑いようも無くロック的なリズム隊に乗せて放出した前代未聞の「グローバル(志向)・ミュージック」。巨視的という言葉を用いるのが一瞬ためらわれるほどの無節操な作曲家陣(バカラック、スティービー・ワンダー…一曲目では「ヘイ・ジュード」のフレーズまで!)の前半部、そしてコルトレーンに捧げられた後半のフリーな展開(かといって親しみやすさは決して失われてはいないのは人徳なのであろうか)へ…という流れも素晴らしい。得意の鼻フルートもびゃかびゃかと絶好調。「愛」と「感動」の一人ウッドストック。動物的というか…巨大な黒い熊が甘えてくるような音楽だ。
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ジャズについてだんだんわかってきたことの一つは、誰もが演奏することを許された音楽ではないということである。そこがロックとの大きな違いで、基本的にロックはどんな凡人でも始めることが出来る。ベースが弾けなくてもベーシストになれる。プロになってから成長していくことだって出来る。でもジャズはそうではなくて、ある程度の理論(勿論譜面が読めない人もいっぱいいたんだろうけど、もっと肉体的な)を体得していないと、もっというと傑出した「一芸」を有していないとリングに上がることすら出来ない。「ロックンローラー」というのは「無芸である」のと同義だ、というのは正しいと思う。仮にスポーツに例えるとロックが「100m走」だとしたらジャズは「フィギュアスケート」みたいなものである。だからといってそういった事実がロックの価値を貶めるかっていったらそんなことはなく、「100m走」には「100m走」的な楽しみ方があり、「100m走」だけが到達できる高みが存在していて、それは「フィギュアスケート」の高みとは相容れないものである、ということである。
そういった特別な能力を有した人たちが魑魅魍魎、血みどろのバトルロイヤルを展開する…ってのがジャズなんだってことです。ビバップの面々なんて見てると狂人・変人しか見当たらないですよねw
すばらしいたとえですね! ロック/ジャズと100m走/フィギュアスケート。さすがyojiさん。こういう表現が、いかにもyojiさんらしいなあと思います。すばらしすぎて、最初読んだとき、思わず笑ってしまいました。
投稿情報: kisshee | 2006/06/23 02:39