全8曲、ほとんど飽きずに聴きました。Amazonのレビューとか読んでみても全然ピンとこなかったんですが、もっとさらっとしてる音楽だと勝手に想像してたんだけど、実際のところは凄く濃密で張り詰めた、つけ入る隙のない仕上がりです。凄まじいまでに研ぎ澄まされ、かつ様々な楽器のリズムが複合的にそして有機的に、時にポリリズミックに絡み合っていくさまはそら恐ろしいものがあります。一つ一つの楽器や打ちこみの質感、また「間」にいたるまでが彼自身によって全て周到に「選ばれている」という印象が強くあります。クレジットには"Produced and Written by Kenji Ozawa"と記載されてますが、これから先彼が歴代の偉大なるプロデューサーの系譜に加わる、という展開も無きにしもあらずではなかろうか…というのもあながち先走った考えではないと思います。
それでいて一曲、あるいはアルバム一枚聴き終わったときの印象はすごく「開かれた」音楽である、という感じが前作「エクレクティック」とは大きく異なる点です。それはインストで表現したが故の達成であると私は思います。無論「あえて」インストで表現したというよりは、自然な発露としてこういった表現になったという印象なんですが。「ヴォーカルを封印したことによってパーソナルな印象を拭い去った」とかそういったことを言いたいわけではないですよ。そういう考えは人間の声の可能性を狭めてるだけですし。
それから、当然のことなんだけど、この人はあらゆる意味で90年代とは異なる音楽をやっているんだ、ということを私は強く再確認することになりました。正直言って同じ人が作ってる音楽だとはどうしても信じられません。「エクレクティック」の延長では捉えられるんだけど、90年代からの活動の延長で捉えることはどうしても出来ないのです。ということはやはり「エクレクティック」での変化が急激だったのでしょう。よく「ところどころに小沢健二らしさが感じられる…」みたいな文章を見るんだけど、私には全然わからないです。
それではその重大な変化ってのはなんだったんだろう…ってずっと考えていたんだけど、それは「元ネタ」感の消滅ではないかと私は思います。「春にして君を想う」までの彼の作品は全て(と言ってもいいと思う)、フリッパーズ時代を含めて、大なり小なり聴衆に「これの元ネタはなんだろう?」と考えさせるところがあったと思う。一般化するのは良くないと思うんだけど、少なくとも私はそうでした。でも「エクレクティック」以降はそういったレビューってあんまり見られないし、参考にした音楽はあるんだろうけど、それを連想させる作りを彼の作品はしていないと思います。これはかなりドラスティックな転換であったはずだと思います。
ただ私は別にそれを残念だとも思わないですし、また90年代のような音楽を作って欲しいとも、歌って欲しいとも思ってはおりません。なぜならこの「毎日の環境学」を私は非常に美しい音楽であると思ったからです。これから先も彼の音楽の変遷をずっと見守っていきたいと思わせる傑作です。
[追記]私が特に気に入っているのはM7「影にある仕事」です。かっこいい。「影にある仕事」〜「眠れる人、目覚めよ/マトゥリンバ」の流れは素晴しいです。というかこのアルバムどんどんハマっていっちゃってヤバいです。
[さらに追記]もっと言うと、曲の構成のしかたっていうか、作曲の段階から変化があったのかなという気がします。「エクレクティック」の前で。それまでは歌と「歌伴」との間に多かれ少なかれ乖離が見られないことは無かったと思いますが、それは解消されたっていうかどうでも良くなったとみるか。「エクレクティック」以降は一つのフレーズから膨らませていってる感じが顕著です。
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