マーシャルの匂いで飛んじゃって大変なyojiです。こんばんは!…というわけでここ10年間でも最も巨大な才能の一つであるということに疑いの余地も議論の余地も無い(と思ってます)椎名林檎さんについて書きたいと思います。私は最初に観たとき(多くの人と同じく「ここでキスして」のPVを観たときが初めてでした)から彼女の才能にはヤラれ続けてます。そして驚いたことに、彼女の表現には未だ限界が見えないと思うんです。これは破格の才能と言えるのではないでしょうか。
別の言葉で言うと、彼女は私にとってはまだ全然「イタい」存在なんですね。逆説的な言い回しですけど「イタい」間は彼女は安泰だと思います。それはすなわち「体制に非ず」という意味なわけですから…。
天才というのは状況を設定してしまう、と誰かが言っていたけれども、まさにその通りで、それは楽曲において、という位相においてのみならず、彼女の登場以降「ロックっぽい音楽をやっている日本の女性アーティスト」っていうのは全て、何らかの態度を選択することを余儀なくされてしまう羽目に陥ってしまったのではないかと思うわけです。「無視する」という選択肢さえ「態度」とみなされてしまう…それほどまでの力が彼女にはあったし、現在もあると思うわけです。「椎名林檎以前/以降」っていう、○ッキンオンみたいな言い方はある意味において全く間違っていないと思います。
正直言って彼女より音楽的な知識が豊富な人や歌唱や楽器の演奏が達者な人は沢山いると思います。語彙も実はそれほど多いわけではない。しかし彼女はその組み合わせによって全く焦点のブレない物語を編みこむことが出来た…わけです。ストーリーテリングの巧みさということなのかな。例えば私は小島麻由美が結構好きなのでたまに聴くんですけど、驚いたことに小島麻由美と比べてみても、椎名林檎が語る「物語」のほうがフォーカスが合ってる気がするんですね。無論ここで私が問題にしたい「物語」っていうのは歌詞カードに書いてある歌詞のことを指すのではなく、歌詞を含めた音像全てをトリガーとして各人の頭の中で生成されるもの(ナラティブ)を指すわけですが(だから非常に個人的な話です)。彼女の独特な文体も決して奇をてらったものではなく、楽曲において有機的に機能してるし、まさしくミリ単位で計算されつくしてると思うんです。それが成功しているかどうかは関係なく、彼女の息がかかっていない部分は楽曲において見出せない、という意味で。
しかし椎名林檎を椎名林檎たらしめているのは一体何かというと、あの巨大な自意識に他ならないと私は思います。マドンナもそうなんだけど、自分がどう見られているかということにこれほどまでに細かく神経を使い、翻ってそれにギチギチに締め付けられてしまっている、という人を私は知りません。それは「ミュージックステーション」でタモリの横で喋ってるときから写真集においてまでの全ての局面において…。おそらく彼女の中には我々凡人が想像だに出来ないほどの壮絶な葛藤があるのだろう、ということを考えてみると私は鳥肌が立ってくる思いがします。このナルシスティックな部分と表現に対する衝動が摩擦を起こし、火花を散らす…これが続く限り(ああ、なんという救いの無さなのだろうか)彼女の創作が凡庸に堕すことは無いでしょう。そして我々はそこにあのジョン・コルトレーンに通じる「苦悩」を見出すことが可能なのではないか、と。彼女の曲に「ギブス」っていうのがあるけど、これほど端的に彼女のことを現している単語は無いのではないでしょうか。
[追記]書き忘れましたが私が好きな曲は「正しい街」「歌舞伎町の女王」「丸の内サディスティック」「積み木遊び」です。これらの曲を聴くだけで彼女のありあまる才能の一端に触れることができます。
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